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私の生き方の指標となっている3つのコンセプト-自分の行動に一貫性がない人へ

今まで私の生き方というか、行動の選択基準に軸がないと感じることが多かった。そこであるとき実験的に基準を設け、それは今でも使い続けている。

基準を設けると、行動や考え方がとてもすっきりする。毎回くよくよ悩んだりする必要がなくなり、楽に生きることができるようになる。

今回は、私が生活に取り入れた3つの考え方を紹介する。

正直

「ショウジキ」ではなく「セイチョク」と読む。ショウジキが他者に嘘をつかない性質を指すのに対して、セイチョクは自分自身に嘘をつかない性質を指す。

ショウジキとセイチョクの違いを説明するのに、よく挙げられるのは孔子が門下生の子路に語ったエピソードである。こちらの記事で漢文の訳が掲載されていたので紹介する。

葉県(しょうけん)の長官が孔子に言いました、 「私の村にはとても正直な者がいます。彼の父親が羊を盗んだとき、自らの父親を訴えたのです。」 孔子はこれを聞いて、 「私の村の正直というのはそれとは違います。父は子のために罪を隠し、子は父のために罪を隠します。本当の正直とはその心の中にあるものです。」 とおっしゃいました。

子は親をかばいたい気持ちに嘘をつくことなく、またその逆も同じ。私が従うのはこのように孔子が説明している解釈だ。

これに従うと何が良いのかというと、まず後悔がなくなる。どんなに失敗したり苦労したりしても、「やりたいことをやれたのだから、結果はどうあれ良かったじゃないか」と思えてくる。無理にショウジキであろうとすると必要な嘘をつくたびに心的なダメージを負うし、セイチョクのほうが私の性にあっている。

ただし、四六時中好きなことしかやらないわけではない。自分に嘘をつかないことにしているのに時々嘘をつくことを許容しているのは矛盾だが、言ってみれば矛盾だから必要なのだ。

というのも、人間が健全に生きつづけるために必要なのは、リラックス(弛緩)だ。しかし、それはテンション(緊張)とセットであり切り離せない。その両方を共存させておかないと、リラックスがなくなってしまう。

人は自分の欲を満たし続けると、その状態に慣れてしまう。すると、満足することに幸せを感じなくなってくる。

息ができることは当たり前で、特に喜ばしいことではない。大半の学生にとって、毎日学校に通うことは喜ばしいことではない。当たり前のことを喜ぶというのはなかなかに難しい。

人生には喜びが必要だ。喜びを感じ続けるために、時にはやりたくないことをやることもあるが、それでも私の行動原理の1つ目は正直、セイチョクだ。

肯定的虚無主義

私は私であるが、同時に他の誰でもある。「他でもない私である」ということには一切価値がない。この生は唯一のものではなく、生きることに意味など無い。

他の誰でもないこの自分、ということについて考えたことがあるのだろうか。何が自分を唯一無二としているのか、逆にいえば、それを失うことで自分が自分ではなくなってしまうような何かはあるのか。

おそらくそんなものは無いだろうと思う。名前や外見や思想はいくらでも変えられる。

その人の「歴史」、すなわちそれまで積み重ねてきた人生は唯一のものだという考え方もあるが、歴史とは過去であり、過去というのはすでに失われたもののことを指している。それはすでに無いのだ。そして、記憶の中にはあるという人には、「あなたの記憶が細部まで完全に正しいと、誰が保証できるのか?」と返したい。

細々としたな個体差はここでは考えない。ぱっと見て全く同じ人間がいたとして、その人の細胞の数や形が違うとか、こっちのほうが風邪をひきやすいなどと言ったところで何の意味があるだろうか?

もう一つ、「生きることに意味など無い」ということについて。

人は生まれて、生きて、死ぬ。ただそれだけが大切なのであり、その生の内容、たとえばビジネスに成功して億万長者になったとか、逆に今日を生きるのにも困るほどの貧乏でかろうじて生きていたに過ぎなかった、などということは重要でない。

健全な人間は自分から死のうとしない。それは人間に本能として備わっている欲求であり、すべての欲求でもトップクラスに強い。

それがある限り、人間は、一度生まれてしえば死ぬまで自動的に生きようとする。死のうとしなければ生き続けるし、生きようとしなくても体は勝手に生きようとする。生は死への直線運動であり、外部から大きな力が加えられない限りその直線はそれることがない。

人間はただ生まれて死ぬだけだ。そこに意味はない。ただ、そういうものなのだ。

ただし、この無意味さは生きることを否定しない。無意味だから死ぬということにはならない。だったらこの世の人間は、宗教家を除いて全員死のうとするだろう。

何が言いたいのかというと、無意味な人生は何も書き込まれていないスケッチブックのようなものなのであり、その人生の主人が何を書き込もうと自由ということだ。この世に意味は無いのだから、生きるにあたってやらなければいけないような義務はない。もっと自由に生きていい。

すべての無意味な人生においては一切の義務など無いのだから、私はもっと自由に生きることを私に対して許可しようと思ったのだ。

幸福

生きている以上、幸福を望まずにはいられない。そこで知るべきは、「幸福とは、自分中心に生きること」であるという発想だ。自己本位と言ったほうがいいかもしれない。

自分中心なのだから、すべての判断基準は自分で決めていい。

進学校から大学へ行って大手企業に就職、などという生き方は大抵誰かから与えられたもので、その進路を採用するという点で自分中心であるかのようだが、その場合その人は情報を受け取ることしかできない(=事前に受け取る情報を選べない)ので結局他人の言うことをもとに生きているにすぎない。

自分を幸せにできるのは自分だけだ。他人はあなたを幸せにすることはできない。

自分中心、という言葉に嫌な感じを受ける人に向けて補足。他者に尽くすことを自分の生の意味にしても当然いい。

この世界は誰のためのものでもない。それを決めるのはあなただ。他人が存在するのはあなたが五感と理性で構築したあなたの目の前に広がる世界においてであり、あなたは他人の世界に生きてはない。そう感じているのならばそれは錯覚である。すべての人は、その人がそれぞれ生きている世界の主人である。

最後に、幸福とは、自分が他者によって歪められていない「自分の意志」に従って生きることを、自分に対して許可することである。